2011年4月30日土曜日

Farmer's

世間はゴールデンウィークに入っているみたいだ。
緑が綺麗になって行く季節だ。
さっき久しぶりに鎌で畑の草をちょっと刈った。
完全無肥料にしてから2年目である。
去年はあまりにいい加減過ぎて収穫は少なかった。
まあ私なりに自然の状態に近付けた方法ではあったのだが。
今年はもう少し手を加えようと思っている。
問題は今までやっていた有機肥料が消えるまでは時間がかかる事だ。
完全に自然の状態に戻るには10年かかるとも言われている。
りんごの木村さんが苦労されたのもそこかも知れない。
まあ私は生産農家ではなく家で気楽にやっているのでのんびりとは構えられるが。

和太鼓連盟のチャリティーコンサートの日程がやっと決まった。
岡山ファーマーズマーケットノースビレッジが7月31日(日)でサウスビレッジが9月18日(日)だ。
サウスビレッジは今週再オープンだったので、確定するまで時間がかかってしまった。
これから出演団体を募って前に進めたい。
打ち合わせの中、どの人に会っても大変協力的なのが嬉しい。
皆さん想いは同じなのだろう。
復興には時間がかかる。
長いスタンスで考えていきたい。
また平行して人間の有り様も1から考え直す機会になればと思う。

2011年4月29日金曜日

失敗

慌ただしく毎日が過ぎて行く。
そしてその中失敗。
今日は御休小学校で敬老会があり、子供達がお年寄りの前で太鼓演奏をする事になっていた。
しかし私は他の事に気を取られていて、うっかり曜日の感覚を忘れてしまった。
電話を貰って急いで学校に行ったら、もう子供達の演奏は始まっていた。
幸い内のメンバーが来ててリハーサルはしてくれていたが。

子供達の演奏の後、お年寄りに太鼓を叩いて貰うと言うコーナーがある。
毎年恒例の事で結構皆さん楽しみにされている。
まあそれに間に合っただけ救われた。

どうも私はする事が指3本までなら、かろうじて大丈夫だが、それを越えると問題が生じるみたいだ。
優秀なマネージャーか秘書が必要だ。

しかし可愛そうな私を助けてくれるボランティアは果たしているだろうか?

2011年4月24日日曜日

脱原発

今日は午後から映画を観に行った。
タイトルは「ミツバチの羽音と地球の回転」である。
この映画は上関原発そして祝島の人達をテーマにしている。
この種の映画は大手マスコミがまず手を出さない為、民間の一部の人達が場所を借り上映される事が多い。
映画の内容は以前このブログでも紹介した「祝島」と似ている。
上関原発に反対する祝島島民の目線から作られている。
島民は殆どお爺さんお婆さんであるが、もうかれこれ30年近く毎週月曜日に集まっては原発反対のデモをしている。
島民の殆どは農業と漁業で生計を立てている。
故にこの瀬戸内海を汚さず、綺麗なまま後世に残す為に反対運動をして来た。
反対運動はしているけど普段のお爺さんお婆さんの顔はいつも笑顔で明るい。

映画の途中でスウェーデンの電力の状況がレポートされている。
スウェーデンはやはり脱原発の国で自然エネルギーの供給に力を入れている。
凄いのは各家庭がどのエネルギーを使うかで電力会社を選ぶ事が出来る点だ。
たとえばある家は風力発電所から電気を引くとかだ。
日本では大手電力会社が独占していて、その社と下請け会社の利権を守る為に自然エネルギーの開発にはかなり否定的だ。
またマスコミにも大手スポンサーである電力会社は自分達に不利な情報は流さないように圧力をかけている。

先日講演を聞かさせて貰った田中優さんも言っておられたが、大手電力会社が独占を止め、また国が脱原発の方に動いたら日本は原発無しでも自然エネルギーで電力を補う事が出来るそうだ。
またこうした太陽光、風力、地熱、海の波による発電の技術は日本は世界でも秀でているらしい。
原発が無いと日本はどうにもならなくなると言うのはまやかしだとの事。

映画の後この映画の監督釜仲ひとみさんのトークビデオの上映があった。
今日本政府が安全だと言っている放射線量の基準値がとんでもなく高い事。
今再開された小学校での多くが数値が高く、子供が将来に渡って危険である事。
六ヶ所村に使用済み燃料の量がとてつもなく多く蓄積されている事。
今度一度使った燃料からプルトニウムを抽出して再利用する事になっているが、このプルトニウム自体がウランに比べても桁違いに危険な物質である事などを述べられていた。

もう人は今までの事を教訓に脱原発に進むべきだ。
もし日本がそちらの方向に向かえば多くの国が追随するかも知れない。
世界全体から原発が無くなれば良い。

2011年4月22日金曜日

農大開始

今日は朝から農大に行った。
今年度最初の授業だ。
和太鼓は選択授業で他には英会話、ペン習字、生け花がある。
学生は1年毎に選択出来るので1年生で和太鼓をしてても2年生で他のものに変えても良い。
毎年数人は変更する。
どうしてかと学生に聞くとペン習字や生け花は作品が出来た時点で先生がチェックして良ければそれで終わりになり、楽だと言うのだ。
確かにそれに比べ和太鼓は終わりと言うものが無いからみっちり3時間する。
流れるのもわかるような気がする。
しかしでかい体をして、いかにも不精な学生が生け花等に移ったりすると、「お前それは違うだろう・・・」と言いたくなる。

が言わない。
みんな自由だ。

その代わりと言っては何だが、残った学生はより本気に和太鼓に向かうようになる。
また1年生にも熱心に教える。

今年は2年生が7人、1年生が9人で計16人だ。
どんな年になるか楽しみだ。

2011年4月20日水曜日

ハイエース海を渡る。

気温も徐々に上がり、本来一番過ごし易く気持ちの良い季節なのに何かとせわしく動いている。
部落の仕事、イベントの企画、韓国公演の準備等だ。
一つ一つをその瞬間にフォーカスを絞って考えれば多分大した事は無いのだろうが、なかなかそれが出来ない。

幸い韓国行きの準備は上手く進んでいる。
今回和太鼓は船と陸路を使って運ぼうとしているのだが、一つ問題が起きた。
我がハイエースは用途が貨物になっていて韓国税関が入国を拒否したのだ。
乗用なら良いのだが、貨物は駄目だと言う。
がっかりしたがそれでも私は諦めなかった。
私達は車を商用として使うのではなく、文化交流の為に使うのだからと言う旨を富川市から韓国税関に頼んで貰った。
すると手間はかかったが韓国税関は特例として許可を出してくれた。
何でも取り合えずは言ってみるものだ。

こうして我がハイエースは下関からフェリーで釜山に渡り、そこから京釜高速道路を450km北上ソウルに行き、そこから京仁高速道路で富川市に入る事になった。
しかし問題は幾つかある。
私達はハングル語を話す事も読む事もできない。
英語を話す人もいるにはいるが少なかった気がする。

また韓国は右側通行だ。
アメリカも右側通行で私も左ハンドルの車に乗っていたが、今回は右側通行の右ハンドルだから多少の戸惑いがある。
それに韓国の人達は運転が荒い。
まあ安全運転を心掛けようとは思う。

後はアニョハセヨ(こんにちわ) とカムサハムニダ(有難う) と笑顔で乗り切ろう。
楽しい旅にしたい。

2011年4月18日月曜日

城跡

我が道場の近くの山の上に美和神社と言うお宮がある。
ここはおそらく地元の人しか知らないだろうが景色の素晴らしい処だ。
瀬戸の島々、四国、瀬戸大橋などが見える。
広々としていて、ゆったりとした気持ちに成れる。

昨日この美和神社に登った。
ここの参道は桜並木が綺麗なので観に行った。
桜の花はだいぶ散ってはいたが。
お宮の前にちょっとした広場がある。
ここから南の方に山道がある事は知っていたのだが、今回そこに案内の看板が立っていた。
看板には高山城址1.7kmと書かれていて矢印があった。
山城自体はこの地方にはたくさんあるのだが、この近くにもあるとは知らなかった。
天気も良かったので片手に用意されていた竹の杖、もう片手にダラブッカを持って山道に入っていった。
山の尾根伝いに行くのだが、つつじが一杯咲いていて綺麗だし、拡がる景色も気持ち良い。
ただ難点は山歩きをするつもりでは無かったのでつっかけで来ていて歩き辛かった事。
でも杖があったので何とか進む事が出来た。
30分くらい歩くと下界も良く見える処があり、大きな岩があったのでダラブッカを取り出し、暫く叩いた。
気持ちが良い。
それからまた歩き始める。
徐々に登りが急になって行く。
そしてとうとう土を盛り上げただけの砦に入る。
城跡と言っても今残っているのはこれだけで、中も雑木が生えている。
これから少しづつ木も切り出し、建っていた城の底石などもわかる様にするのかも知れない。

私はまたまた頂上の見晴らしの良い処にある岩に座り、ダラブッカを叩き始めた。
ここにもつつじが一杯咲いていて黄色のあげは蝶が2匹が蜜を吸いながら舞っている。
あぶもまたつつじの蜜を吸っている。
地面には蟻がちょこまかちょこまか走っている。
滅多に人も入らず、側にコンビニも無いのに虫達の生活は完結している。
長閑だ。

暫く景色とダラブッカを楽しんでから美和神社への帰途に着いた。
また行こうと思う。

楽しみスポットが一つ増えた。

2011年4月15日金曜日

チャリティーイベント

今我が美和の里の山々も山桜に覆われ薄ピンクに染まって綺麗だ。
道場の周りでも鶯が鳴いている。
良い季節だ。
今日は最近なかなか行けてないヨカに行こうと思う。
体を動かすにも良い時期だ。

ヨカの後は18時30分から三木記念ホールである未来バンクの田中優さんと友達であるまーちゃんのトーク&ライブのチャリティーに行く事にしている。
田中優さんは以前からソーラーシステムや自然エネルギーの導入に力を注いで来た。
まーちゃんは沖縄の西表島の出身で自然を守ろうと音楽を通して訴えている。
二人のトーク&ライブの後は私達の企画するチャリティーの打ち合わせがある。
実は吉備津彦神社の宮司さんが東日本大震災の被災者を岡山でも受け容れようと「おいでんせぇ岡山」を立ち上げたのだ。
すでに何回かミーテイングを重ね具体的に動き始めている。
「おいでんせぇー岡山」は家を探すのは勿論だが、農地を確保する事も大きな柱になっている。
また各自に合った幅広い支援のあり方も考えている。
私は前回のミーティングに参加し何人かのミュージシャンとも会った。
そこではやはりチャリティーイベントの話が持ち上がった。
おそらく何箇所かでする事になると思うが、まずは吉備津彦神社の境内で7月7日に行う事が決まった。
今日はより具体的な話になろう。
今月末にはSVとNVの話も具体的になって来ると思う。

皆と力を合わせながら、出来る事をして行きたい。

2011年4月13日水曜日

 母親を病院に連れて行き、診察を受けるまでかなり待ち時間があるので後楽園に行った。
今がちょうど桜が満開の時で、見える範囲の土手が桜の花で覆われていた。
しかしいつもと違うのは出店が一軒も出てない事、花見の客もほんの僅かだった。
東日本大震災の為、今年は自粛と言う事らしい。

例年ではここで桜祭りが華やかに行われる。
桜祭りの開会式では鼓空も2度太鼓を叩いた。
夕方演奏の後ロールを叩き、ドンの一発ですべて夜桜に一斉にライトが照らされた。
出店も一杯出るし、花見客も処狭しとシートを敷きB.B.Q.をし酒盛りをする。
夜桜の下での人の賑わいは楽しい。

天気も快晴だったし私はダラブッカを桜の下で叩こうと持ち出した。
暫くぶらぶらした後、ちょっと奥まった処にベンチがあったので腰掛けダラブッカを叩き始めた。
青空の下桜を見ながら叩いていると景色と音が一体化して来る感じだ。
奏者は徐々に消えて行く。
暫くすると両親に連れられた男の子が遠くからダラブッカに興味を示す。
私は手招きをすると、男の子は両親に連れられ私の処に来る。
「叩いてみる・・」とダラブッカを差し出すと元気よく叩いた。
また私が目を瞑って叩いていて、目を明けるとおばさんが前にいた。
「良いわねぇ~」と声をかけてくれた。
私も大道芸人になろうかと思った。
しかし本当は私は人の前で演奏するよりは、人のいない自然の中で演奏する方が好きである。どうしたものか?

2時間程叩いてまたぶらぶらしていると少ない花見客の処からB.B.Q.の匂いがして来る。
私もお腹が空いて来た。
そして思った。
土手の上にダ0マと言う焼肉屋があり、毎年この時期には大勢の花見客の為に簡易こん炉を貸し出し、B.B.Q.の材料を売っている。それが今回自粛になった為に予めたくさん仕入れていた肉などが全く売れず、店の存続まで危ういとの情報が私の耳にも入っていた。
各成る上は私も多少ながらも売り上げに協力しようと思った。

店に入ると1階のどのテーブルも一杯、しかも皆6人がけ、私は一瞬躊躇した。
私は果たして店に協力する事になるんだろうか?
しかしながら優しきウエートレスは私を1つだけ空いていた6人がけのテーブルに案内した。
私はお薦めだと言う珍味セットを頼んだ。
頬肉等何種類か載っている皿が来た。
しかし私は何が何かわからぬままに急いで口の中に放り込んだ。
後に客が来てつかえたら悪いなぁと思ったからである。
幸い誰も入っては来なかったが。

B.B.Q.はやはりゆっくり食するものだ。

2011年4月10日日曜日

桜友会の皆さんと

5月に韓国の富川市に公演に行く。
これは岡山市と富川市が桃つながりで姉妹都市になっていて、今回はボクサゴル芸術祭(桃源祭り)に呼んで戴いたのである。
こちらからは鼓空と桜友会の方々で行く。

桜友会は望月太津友先生と言われる女の先生が指導されている邦楽と日本舞踊の会である。
望月と言う性は日本の囃子、長唄、歌舞伎等でつつみや太鼓を継承している由緒ある性だ。
踊りの方は花柳流を継いでおられる。
望月先生とは岡山国体の開会式や国民文化祭で御一緒している。
気さくな感じの良い先生だ。

今回の芸術祭ではこの桜友会の皆さんと一緒に4日の開会式で7分と5日に朝30分、夕方40分の舞台を勤める事になっている。
5日についてはお互いの持ち曲を自然な形で繋げると言う事で左程難しくは無い。
問題は開会式の演奏だ。
折角御一緒するのだからがっぷりと共演する事となった。

それで選曲だが、鼓空に「太古の響き」と言う曲があり、これをベースに編曲する事に決まった。
もともと「太古の響き」は龍が暗黒の中で雨音で目覚め、徐々にゆっくり動き出し、水晶の玉を見つけ飛び上がり、大空を舞い、そして彼方に消えて行くと言う曲である。
この曲に桜友会の方々に琴、つつみ、大皮、太鼓、舞踊で入って戴く。
素晴らしい布陣になった。
今日午後から2回目の合同練習がある。

韓国の方々にも喜んで貰える舞台にしたい。

2011年4月8日金曜日

村の事

今日は久しぶり小雨が降っている。
4月に入り流石に暖かくなって来た。
普段だとこの時期、気持ちも弾んでうきうきした感じになるのだが、流石にそうはならない。
まだ原発が収束の目途すら立ってないと言うのも気持ちを重くする。
本当に人間のライフスタイルを根本から見直す時期だろう。

さて私の住んでいる小さな集落の事を書こう。
ここは見方によれば、岡山平野の北西の角にある。
農業中心の村である。
私はここに1990年に入らせて貰った。
集落にいる限りは何年か置きに役員の仕事が回って来る。
今年私にも役員が回って来た。
3度目である。
最初は会計だった。
2度目は町内会長にさせられてしまった。
私より年配の方がおられたのだが、私にやってくれと頑として言われ引き受ける事になった。
この年は台風の直撃を受け、町内放送の電信柱が4本倒れるは大師堂は壊れるは、用水が詰まり大水が出るなど大変だった。
電信柱は山に入り木を切り、担ぎ出し、防腐剤を塗り立てた。
大師堂は部落の人達と2ヶ月程かけて改修し回りの土壁も塗り直した。
我ながら良く働いた年だった。

今回は町内会長は年配の方にお願いし、私は会計と2年受け持つ福祉委員となった。
今年は5部落が共同で奉っているお宮さんのお世話をする番になっている。
お宮や参道の掃除、宮田の作業、おしば下がり、祷開き、春祭り、夏祭り、秋祭りと行事が一杯だ。
大変な年に役を引き受ける事になったが、私も部落に入れて貰った時から郷に入れば郷に従うべきだと思っていたし、農村ゆえ神仏への信仰が残っているのもいいなぁと思っていた。
また何より、普段多少防音はしているものの練習の音は部落に漏れている。
だからお詫びの意味でもこういう時には一生懸命働こうと思う。

仕事と行事が重ならない事を願うばかりだ。

2011年4月5日火曜日

和太鼓チャリティーコンサート

岡山県和太鼓連盟の前回の理事会でチャリティーコンサートをしてみてはとの意見が出て、なんなく私が担当する事になった。
早速会場探しから入ったのだが、別に1ヶ所に絞る事も無いと、とりあえず県北と県南の2箇所を当たり、協力して貰える事になった。
その2箇所はSVとNVである。
なぜイニシャルかだが、SVは今管轄が県から岡山市に移譲中でありこの4月末に再オープンする事になっていて、この話が確実になるのはそれ以降となり、今は内定段階である。
もう一つは時期だが、当初7月末から8月にとの事だったが、両方とも屋外のイベントなので昼ならお客さんが暑いのではという心配があり検討が必要だ。

内容だが基本お金を出来るだけ使わず、募金で得たお金が少しでも被災地に行くよう心掛けようと思っている。
その為には照明は使わず、PAは鼓空の物等を使うとか、宣伝用チラシは輪転機で刷り上げるとか出演者の方々には申し訳無いが手弁当で来て貰うとかしなければならない。
今回それぞれ地元のグループの方々ともお話させて貰ったが、皆想いは一つであった。
日程が決まれば募集をして1ヶ所で4~5団体にお願いしようと思っているが、それに関しては全く心配していない。
もし団体数が多くなれば、さらに第3、第4と増やして行けば良い。
皆の想いが一つならさほど難しい事は無いだろう。

みんなが無理のない状態で楽しくチャリティーコンサートが開けたらと思う。

2011年4月2日土曜日

筋肉痛

台湾から帰って来て、もう普通の生活に戻ったと思ったら、急に眠くなったり、体の節々が痛くなったりする。
昨日は久しぶりにヨカに行った。
そうしたら余計に筋肉痛になってしまった。
しばらく忙しくて行けなかった事もあるが、この春今まで教えて貰ってた先生が私用でしばらく休む事になり、今は違う先生が来られている。
私も前の先生なら片目片耳だけでスイスイついて行けたのだが、今度の先生は基本は同じだと思うが体の動かし方がだいぶ違う。
これで良いのかなぁと先生や周りの人を見て確認している始末。
お陰で心身共に疲れてしまった。

今日は東北の震災の為のチャリティーコンサートをする為の会場を探しに行った。
場所だけ決まれば出演者はすぐに集まってくれると思う。
詳しく決まったらまたお知らせしたい。

また他のチャリティーイベントでも鼓空が空いている時は協力しようと思っているので気軽に声をかけて戴きたい。
いろんな処で一杯支援の輪が拡がれば良いと思う。